科研B「東アジア圏の複言語主義共同体の構築―多言語社会香港からの示唆」(通称香港プロジェクト)の研究計画
① 研究の学術的背景
1.1 複言語主義的言語能力観とtranslanguaging(複数言語併用)
ヨーロッパにおいては,複言語主義に基づく,内容重視の第二言語教育が行われています.(CLIL: Content and language integrated learning) その特徴は,外国語教育および数学,理科,社会などの専門科目において,バイリンガルの教師が学習指導時に複数言語間を往き来するところにあります.この言語の往き来をtranslanguagingと呼んでいます.ここでは,複数言語併用と呼ぶことにします.
従来,複数言語を話す人が言語を切り替える行為は,code-switching呼ばれ,バイリンガル社会で広く観察されてきました.しかし,この用語は,しばしば否定的な意味合いを伴って使われてきたことも否めません.それは,モノリンガル話者・社会の言語に対する価値観と相反するからであり,また,不完全な言語習得の結果,一つの言語で意思伝達を維持できない場合に生じる行為であると考えられてきたからです.また,同様なことは,第二言語話者のcode-switchingについても当てはまります.目標言語のみでコミュニケーションを成立させるという第二言語教育の目的に反しているとみなされるからです.
複数言語間を往来する同じ現象でありながら,ヨーロッパで複数言語併用(translanguaging)という別の用語を肯定的な含意で用いることにこだわる背景には,言語政策上の理念があります.ヨーロッパでは,1970年代から域内の交流と発展を目指して,旅券審査の廃止や通貨の統一を実現してきました.言語についても,Unity in diversityを標榜して,共同体構成員が相続言語(母語)を捨てることなく,しかし相互の意思伝達を可能にするために,「すべてのヨーロッパ人をバイリンガルに」というスローガンが掲げられました.そこでは,必要最小限度の言語運用能力を複数持ち合うことを目指していました.母語話者並の高度な熟達度が目標となっていたわけではありません.次第に目標が高度化して6段階の言語熟達度が行動指標により記述され,ヨーロッパ言語共通参照枠(CEFR)に発展します.しかし,基本的には話せる範囲内で複数言語を使い,自分とは異なる母語を持つ人と,必要に応じて言語を切り替えながら意思の疎通を図る社会を目指してきたと言えます.
たとえば、アメリカでバイリンガル教育が発展してくる背景には,言語集団間の力関係の構図がありました.そこでは,少数派集団の多数派集団への適応,すなわち言語的には多数派言語の母語話者をモデルとした熟達度の達成を目標とする二言語能力の育成が課題でした.これに対して,カナダの多文化共生をめざした多言語主義やヨーロッパの複言語主義では,第二言語を目的に応じて用が足りる程度に使えることが課題となります.第二言語話者なりの熟達度が達成目標で,コミュニケーションへの参加者は理想的には皆,さまざまな組み合わせの二言語話者であり,そこでは二言語の併用は異端視されません.複言語主義社会のめざす第二言語話者像に方向づけされた教育方法として,複数言語併用(translanguaging)が登場していると言えるでしょう.
1.2 日本の言語教育政策の動向と東アジアの地理的視点から見た今後の方向性
日本の学校教育における英語教育政策は,近年めざましい進歩をとげています.バブル経済崩壊後,日本の国際的地位の低下を危惧して,英語第二公用語論,英語が使える日本人育成のための戦略構想,グローバル人材育成のためのさまざまな教育施策が取られてきました.背景には,人・物・情報の国際化と,それにともなう経済・社会・文化の国際競争の激化があります.英語が話せないことが問題の根源であり,英語話者の飛躍的増加が国家的急務であると考えられています.基本的目標は日本国家の生き残りであり,競争主義的世界観にもとづいていると言えるでしょう.
こうした英語教育政策に対する賛成・反対の意見は,両方ともに,日本中心の世界観から脱していると言えません.大多数の日本人には英語が必要ないとする実用英語教育に対する批判がある反面,英米人に対する憧憬から英語母語話者をモデルとした英語運用能力の育成に対する欲求も見られます.
地球規模で物・人・情報がグローバル化していく途上にあるのは間違いないことで,非日本語話者との接触は今後確実に増えていくでしょう.しかし,日本で日本人が非日本語話者と英語で意思伝達する場合,実際には英語母語話者以外の英語話者である確率が高いし,使われる英語も多様を極めています.
非日本語言語コミュニティの拡大が日本のグローバル化を示す一つの現象であるとすれば,そうした言語コミュニティが日本国内に出現・拡大しつつあることは疑いないことです.たとえば,日常的に海外支社とネット上で社内会議を行う人達がいます.会議は,たとえば,インド,中国,インドネシア,スコットランド,韓国などの国々と結ばれます.母語話者,第二言語話者,外国語話者が入り乱れて,彼らの多様な英語を理解する必要が生じています.
あるいは,大学の研究室には来日したてで日本語が不得手な留学生がいます.英語に堪能な教授は当然のように英語で指示し,メールを送ります.日本人学生はそれを理解して実験報告やレポートを提出しなければなりません.日本が多言語社会化している現実は確実に存在し,その現実を日常とする人とそれに気づかない人が混在しているのが現在の日本と言えます.
日本語モノリンガル社会と非日本語コミュニティとの利害調停に問題の主眼が向かえば,アメリカのようなモノリンガル的視点からのバイリンガル教育的多言語主義への道となるでしょう.日本の国益のみに縛られずに,近隣地域の共存共栄を目標に言語多様性に対応する社会の構築を目指せば,ヨーロッパやカナダの複言語主義・多文化多言語主義への道となるはずです.
私たちは、多文化状況下で共生的な適応ができる人間こそが,これからのグローバル人材の人物像であると考えます.東アジア圏の経済的・文化的交流が盛んになるにしたがって,域内に生きる人々の複眼的な視点と態度の涵養が急務となるでしょう.日本,韓国,中国を見たときに,それぞれの国は基本的にモノリンガルで(中国は国土が広く,例外は多いですが),アメリカのように移民が多数存在して少数派と多数派の言語的軋轢が大きな問題となっているわけではありません.今のところヨーロッパほど域内の人の移動が頻繁ではないですが,このまま東アジアにおいても人的交流・移動が活発化していけば,やがてヨーロッパと同様の状況が生まれると予測できるでしょう.東アジアを経済圏・文化圏として見たときに,アメリカよりもヨーロッパに近いと考える妥当性があります.だとすれば,私たち域内住民が,目的に応じた第二言語話者なりの複数言語の熟達度を身につけることが課題となってくると考えられます.
本研究は,日本の外国語教育においては複言語主義的教育観を取るべきであるという立場で,東アジア圏における複言語主義的な言語社会の構築へ向けた課題に応える研究を目指しています.
② 研究期間内に明らかにする内容
本研究の研究期間は3年間です.最終的には,東アジア圏での複言語主義的な言語コミュニティの創生を目指していますが,本研究はその最初のプロジェクトとして,アジア圏で多言語社会の代表とされている香港をとりあげ,その実態と課題を考察し,あわせて香港と日本の学生が互恵的に日本語・英語・中国語の学習を行う教育システムを試行してみます.香港におけるこのプロジェクトが成果を収めることは,その後,他の東アジア地域で同様の手法による研究を進める礎となるでしょう.
③ 本研究の特色・独創性・意義
本研究の特色は,その学際性にあります.日本で実際に本研究を遂行しようとすると,日本語,英語,中国語,韓国語など言語別の学会が分化しており,研究者の相互交流に難があります.また,言語学,言語教育,異文化コミュニケーションなどの学問分野の区分も障害となります.一見ありふれた研究テーマですが,日本の学問風土では実行が困難であり,それを打ち破る試みです.
本研究の独創性は,その理論的基盤にあります.ヨーロッパの複言語主義をアジアの文脈で時代性を考慮して適用する妥当性を議論するところに独創性があります.
本研究の意義は,包括的な研究アプローチにあります.理論言語学的考察から外国語教育への提言までを有機的に含んだ研究プロジェクトが成功すれば,今後他の研究デザインのモデルとなるでしょう.
④ 研究の方法
本研究は,(1) 香港の教育制度における言語政策の変遷と現況の現地調査,(2)香港在留の日本人子女の言語教育状況の現地調査と彼らの言語習得状況の実態調査,(3)香港居住者の使用言語に関する対照言語学的考察,(4)香港の中国人大学生の日本語学習者への日本語・日本文化に対する意識調査,(5)香港と日本の学生による互恵的外国語共修システムの構築と試行から成り立っています.
5つの研究課題を考察対象により3つのグループに分けて研究を進めることにします.年に1回(初年度は3回),研究分担者が連携協力者および関係分野の専門家や教育実践者を交えて,香港あるいは日本で研究成果を途中報告しながら,適宜改善を加えて,最終年度に国際大会でシンポジウムを開催します.
4.1 研究の枠組み
東アジア地域における複言語主義的言語コミュニティの創生を目指した研究の遂行にあたり,次の三つの観点を研究の枠組みとします.
- 東アジア域内で使用・学習されている言語の特徴および差異を対照言語学などの手法を用いて分析し,言語接触場面での誤解やコミュニケーションの断絶の原因解明と解決への示唆を行う.(言語とコミュニケーション)
- 東アジア域内の言語教育政策を国際的な視点から考察し,第二言語習得・教育心理学の知見に基づいて自律的第二言語学習者の支援へ向けた示唆を行う.(施策と学習者)
- 理論言語学・応用言語学・教育工学などの知見を援用して,第二言語教育の先進的あるいは実験的事例を検証・考察し,複数言語話者の育成を促進する.(教育と技術)
⑤ 運営
5.1 運営の中心
本研究の活動拠点を北海道大学メディア・コミュニケーション研究院におき,研究代表者河合靖が恒常的に,研究全般の運営管理と情報の伝達を行います.また,香港連携協力者として萬美保(香港大学日本研究学科)が現地の調整役にあたります.
5.2 研究組織
研究代表者:河合靖(北海道大学)
研究分担者:飯田真紀・河合剛・小林由子・山田智久(以上,北海道大学)・横山吉樹(北海道教育大学札幌校)・佐野愛子(北海道文教大学)
連携協力者:萬美保(香港大学)・今泉聡子・杉江聡子(以上,北海道大学大学院博士課程)
5.3 情報の蓄積
本研究のサイトをメディア・コミュニケーション研究院のホームページ上に置き,研究分担者・連携協力者間の情報交換を行います.また,勉強会・研究会での研究成果を随時蓄積し公表します.
⑥ 研究の分担
6.1 言語とコミュニケーション(担当:研究分担者飯田・連携協力者今泉)
香港の多言語社会を構成している,広東語,北京語(普通話),英語,さらに本研究で日本との互恵的第二言語学習の対象となる日本語を対象言語学的に分析考察します.まず,広東語について,コミュニケーションに関わりの大きい言語現象(話し手による聞き手目当ての配慮・注意を表しわける<談話モダリティ形式>,話し手による事象目当ての態度・信条を表しわける<モダリティ形式>など)を認知言語学的手法などで分析します.また,これらの言語現象や,言語による「捉え方・視点」,言語による多義関係の相違などについて,広東語・北京語(普通話),英語,日本語の比較対照,ならびにバイリンガルとモノリンガルの違いを考察します.現在のところ,可能表現,知覚表現などを分析対象に考えています.
6.2 施策と学習者(担当:研究分担者横山・佐野・小林)
本節は,教育的言語政策,日本人子女の言語発達,大学生の日本語学習の3要素からなります.
6.2.1香港の教育的言語政策: 香港の学校教育政策の変遷を考察し,その背景を資料やアンケート・インタビューなどの情報をもとに考察します.中国変換後,広東語・北京語(普通話)・英語の3言語の運用能力向上を目指して種々のバイリンガル教育が展開された状況に焦点をあてます.香港の英語教育は,返還後,後期イマージョンの方向に進み,それに行き詰まると,バンドシステム(受験者の能力に応じて,イマージョンの割合を変えた学校群を受験)へと変化して行きました.その変化は,香港の社会では学歴を重視するという風土とも相まって,広く浸透しつつあります.また,その制度は,初等教育にも影響を及ぼし,1年生から英語のリテラシー教育に力を入れる小学校が増えています.本研究では,教育制度,保護者の考えなどをアンケートやインタビューなどで追跡することで,バンドシステムが浸透している理由を捉え,一方,後期イマージョンが受け入れられなかった理由も同時に考察します.
6.2.2 香港の日本人子女の言語発達: 香港における日本人児童生徒の言語習得の状況を,とくにライティングの2言語能力発達に焦点をあてて,カナダなど他の地域の日本人児童生徒と比較して考察します.加速度的にグローバル化が進む中,高い多言語能力を有する人材の必要性が社会的に高まっています.バイリンガル児童・生徒は話す能力だけでなく,読み書きにおいても2言語での高い能力が求められており,その発達を支える教育的支援の模索が喫緊の課題です.香港在住の日本人子弟・国際結婚家庭の子女が書く日英2言語(あるいは中国語を含む3言語)の同一テーマでの作文を対象として,言語間の作文力の関係とその発達に関わる要因を分析します.カナダでの調査と比較することで,アジア圏の多言語能力育成のあり方を考察し,高い多言語能力を持つ人材育成に資することを目指しています.
6.2.3 香港の大学生の日本語学習: 香港の日本語学習者が持つ学習動機づけを,青少年期のポップカルチャー・サブカルチャーへの興味を軸に資料を収集し,インタビューや質問紙調査によってデータを分析し,考察します.複言語主義的多言語社会では,異文化接触が第二言語習得動機づけにしばしば影響します.香港の大学生日本語学習者に,日本のポップカルチャーへの関心の有無や,その関心が日本語学習のきっかけや学習継続の要因になっているかについて,自由記述の形で情報収集する.次に,収集されたデータに基づいて質問紙を作成して調査を行い,日本のポップカルチャーへの関心が日本語学習動機とどう結びついているか明らかにします.あわせて,深い情報を得るためのインタビュー調査で質的にデータを精緻化します.併行して,香港で日本のポップカルチャーがどう受容されているか,出版・放送・映像の観点から情報収集を行い,社会的・歴史的な裏付けを得ます.
6.3 教育と技術(担当:研究代表者河合靖・研究分担者河合剛・山田智久・連携協力者杉江聡子)
応用言語学と教育工学の知見を適応して,香港と日本の大学生の外国語学習における互恵的自律学習プログラムの開発をめざします.主に日本語と英語を対象言語とし,中国語・広東語についても同種の学習プログラムの可能性を検討します.対象の熟達度は,英語については中級,日本語,中国語,広東語については初級から中級の学習者とします.
6.3.1 日英互恵的第二言語学習プログラム:日本語と英語の学習については,既習の言語項目を活用しながら内容中心の言語活動を日本語と英語で交互に行います.言語活動に必要な言語項目と読解および聴解教材の学習はコンピュータによる事前の自律学習によって実施し,授業は香港と日本をオンラインで結んだ文字チャット・ビデオチャットや,香港・日本双方の地元にいる目標言語話者を活用した対面言語活動を組み合わせて,実技中心で行います.授業評価は,学習者からの質問紙に対する回答と標準化された手法(COLT,MOLTなど)による授業分析を用いて行います.
6.3.2 日本人中国語遠隔学習プログラム:中国語・広東語と日本語の学習については,北海道・札幌の観光都市化にともなう複言語主義的対応の必要性についてニーズ調査を実施し,それにもとづいたeラーニング教材を開発します.この教材を使った数週間の自律学習ののち,2回程度遠隔授業で日本と香港の学習者が実践会話する反転学習を行います.テーマは「日本で習う中国語,香港とはどこが違う?カフェで接客してみよう!」などです.授業終了後,双方の学習者から質問紙により学習活動の評価を受けます.
⑦ 年次計画
7.1 平成27(2015)年度
・年3回勉強会あるいは研究会を実施.うち1回を香港で開催.3分野それぞれの文献研究成果の報告とデータ収集状況の中間報告を行います.国内で行う3回目は公開のシンポジウムとし,国内外の関連分野の研究者を指定討論者として招待します.(国内外旅費,招待者の旅費・謝金)
・コミュニケーションに関わりの大きい,特定のいくつかの言語現象について,広東語,北京語(普通話),英語,日本語におけるデータを,母語話者聞き取り調査やコーパス調査から集めます.(国外旅費,情報機器,文献費,謝金)
・香港の学校制度に関して,関連行政府や学校を視察します.(国外旅費,文献費,情報機器)
・香港日本人学校・補習授業校・その他日本語の継承語教育機関を訪問し,教育状況を視察するとともにデータ収集を依頼します.収集したデータは将来的に多言語作文データベースへの集約を目指し,適切に同意書を得るものとします.このデータは,すでに構築中の日英バイリンガル作文のデータベースの拡充に利用される予定です.(国外旅費,情報機器,文献費)
・香港大学生へのポップカルチャー・サブカルチャーからの動機づけ調査質問紙開発のためのインタビュー,自由記述調査を実施します.(国外旅費,情報機器,印刷費)
・香港におけるポップカルチャーの受容について,いつから,どのようなものが受容されてきているのかについて,歴史的・社会的な観点から調査を行います.(国外旅費,文献費)
・互恵的日本語・英語・学習教材の作成へ向けて,ニーズ分析のための香港大学生・日本人大学生への質問紙調査を実施し,教材開発を行います.(印刷費,情報機器,国外旅費)
・中国語学習における複言語主義的なeラーニング教材を開発します.日本と香港での遠隔授業の学習環境を確認します.(情報機器,印刷費)
7.2 平成28(2016)年度および平成29(2017)年度
・28年以降は調査を継続しながら,日本語・中国語・英語の対照言語学的考察,香港学校教育言語政策の変遷と現況,香港日本人児童・生徒の複数言語運用能力の発達状況,香港大学生の日本語学習動機づけについてまとめる作業をします.
・香港と日本の互恵的日本語・英語自律学習プログラム開発を行い,その試行を実施します.(教材開発費)
・研究成果を国内外の学会で発表します.(国内,国外旅費)
・本研究を締めくくる国際シンポジウムを開催し,研究結果を国民にも広く報告します.(印刷費,謝礼費,招請者の旅費,謝金)