1 研究目的、研究方法など
(概要) 「多層言語環境における第二言語話者像―トランスランゲージング志向の会話方略」 世界的規模で人口移動が増加するにつれて,日本も多様な言語集団が短期・長期的に幾重 にも存在する多層言語環境社会に突入している.そのような社会では,話し相手や目的・状 況に応じて,自分の言語レパートリーから言語資源を選んで用いる複言語主義的な第二言語 話者が求められる.しかし,日本の言語環境文脈でのそうした第二言語話者像が具体的に示 されているわけではない.本研究では,日本における第二言語話者の文末表現,聞き手反応, 意味交渉など会話方略のコード・スイッチングについて考察し,さらにそうした言語の混合 使用を含む会話方略への評価を,評価者の属性の違いにより比較して,将来の多層言語環境 化した日本社会における第二言語話者像がどのように変化するか示唆する.
(1) 本研究の学術的背景、研究課題の核心をなす学術的「問い」
本研究の学術的背景 母語話者評価研究 日本の日本語教育研究にあって英語教育研究に欠けている研究に,母語話者評価研究があ る.日本語教育の研究者は大部分が日本語の母語話者であるが,日本の英語教育の研究者は 非英語母語話者の比率が高いことが影響しているものと推測する.北海道大学が中心になっ て行った母語話者評価研究に,2000~2003年度科研費基盤研究(B)(2)「日本人は何に注 目して外国人の日本語運用を評価するか」(研究代表者小林ミナ,研究課題/領域番号: 12480058)がある.90年代に第二言語として日本語を学ぶ外国人が増加し,彼らをどのよう な日本語話者に育成すべきかという悩みが生じていた.日本語母語話者になれるわけではな いし,教室内の指導には時間的な制約もある.日本人母語話者に受け入れられる第二言語と しての日本語話者を効率的に育成するためには,どのような観点に焦点を絞るべきであるか が問いとして立てられた.このような母語話者評価研究の流れは今も続いている(方正, 2017;渡辺裕美・松崎寛,2014;渡辺裕美,2015).
多層言語環境研究
申請者は,2015~2017年度科研費基盤研究(B)(一般)「東アジア圏の複言語主義共同体の 構築―多言語社会香港からの示唆」(研究代表者河合靖,課題番号15H03221)を実施した.15 年前に母語話者評価研究を行った時から考えると,日本はさらに多層言語環境化が進んでい る.外国人人口が劇的に増加傾向にあることは,各種統計(法務省在留外国人統計,総務省 統計局国勢調査,出入国管理統計表,国土交通省観光庁統計情報・白書等)から明らかであ るし,国立社会保障・人口問題研究所(2015)や内閣府高齢社会白書(2017)が予測する高度少 子高齢化社会の到来により労働者不足がもたらされれば,外国人労働力によるその補てんが進行することは明白である.また,「明日の日本を支える観光ビジョン構想会議」(2016)で 訪日外国人旅行者の増加目標が示され,短期在留者増加も今後さらに加速されるだろう.外 国人在留者の増加は,国内の言語使用の多様化を意味する.日本の多層言語環境化は無視で きない事実であり,多層言語環境研究の目的は多様社会に対応する人材の育成であった.
「多層言語環境」という用語の使用には,モノリンガル,バイリンガル,マルチリンガル の住民が,さまざまな言語種あるいは熟達度の組み合わせで入り組んで住みながら接触する 様子を際立たせる意図があった.そうした社会の代表はヨーロッパの複言語主義的な言語環 境であり,そこでは,コミュニケーションの相手や目的,状況に応じて,自分の言語レパー トリーから使用可能な言語資源を選んで用いる第二言語話者像が求められている.これは, 第二言語学習の目標モデルが,モノリンガル母語話者からバイリンガル・マルチリンガル第 二言語話者に変更されることを意味する.
多層言語環境研究科研においては,日本語及び香港の使用言語である広東語の文末表現の 特徴から見る東アジア圏の言語的共通性や(飯田,2018),学校教育における言語政策の変遷 (横山,2017),住民の多言語能力獲得に対する意欲の高さ(佐野,2017),学生間の言語交 換・言語交流による日本人英語学習者の変容(河合・河合,2017; 杉江, 2016; Sugie & Mitsugi, 2016)などが考察されて行ったが,ヨーロッパの複言語主義的な第二言語話者を日 本において育成する道筋がこの研究により現実的なものとして見えたかと言えば,否と言う しかない.グローバル化に伴う日本の国際的な生き残り戦略における日本人の英語力の向上, つまり「英語が話せる日本人育成のための行動計画」(文部科学省,2003)に沿う高度な英語 熟達度を持った人材育成への示唆が,この科研共同研究の貢献と言える.すなわち,英語学 習者の到達目標モデルは,モノリンガル英語母語話者のままであったと言える.
研究課題の核心をなす学術的「問い」
多層言語環境研究は,次のような考え方を基にして発想されていた.日本語を単一言語と して使う島国日本は,英語運用能力の獲得に不利な環境である.グローバル化する世界で日 本が生き残るためには,この状況を打破する革新的英語教育が求められる.しかし,香港, 台湾などの東アジアの研究者との交流から,日本が歴史的に単一言語使用地域であったとい う認識は誤謬であると気づかされた.明治後半から終戦までの半世紀の間,実際には日本は 言語多様性に富んだ多層言語環境社会であった.朝鮮語や中国語,台湾の原住民諸語,ある いは南洋諸語の母語話者を「国内」に多数抱えていたし,北海道や沖縄にもアイヌ語や沖縄 諸語の母語話者がまだ多く存在していた.
島国の言語環境が,日本人が第二言語習得を不得手とする理由だとする前提は疑わしい. 日本人の英語下手だった理由は,単一言語使用を正当化しようとする精神作用ではなかった かという疑問が浮かんできた.そうした精神作用のもとでは,ヨーロッパ型の複言語主義的 な第二言語話者像は理解されない.しかし,日本人が求める第二言語話者像を具体的に調べ た研究は管見の限り知らないし,本音の第二言語話者像を顕在化させることも難しいだろう. 現在の日本における第二言語話者像を具体的かつ実証的に掘り起こし,さらにその第二言語 話者像の今後の変化を予測することは可能か.これが,本研究の核心をなす学術的な問いで ある.